平家物語「木曾の最期」原文と現代語訳・テスト対策のポイントを解説!

冒頭の「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり」という名文で、広く知られている平家物語。

平家物語には、古文の勉強でおさえておきたい単語や文法がたくさんつまっているよ。

そこで今回は、平家物語「木曾の最期」について、スタディサプリの古文・漢文講師 岡本梨奈先生に解説してもらった。

【今回教えてくれたのは…】

岡本梨奈先生
古文・漢文講師
スタディサプリの古文・漢文すべての講座を担当。

自身が受験時代に、それまで苦手だった古文を克服して一番の得点源の科目に変えられたからこそ伝えられる「わかりやすい解説」で、全国から感動・感謝の声が続出。

著書に『岡本梨奈の1冊読むだけで古文の読み方&解き方が面白いほど身につく本』『岡本梨奈の1冊読むだけで漢文の読み方&解き方が面白いほど身につく本』『古文ポラリス[1基礎レベル][2標準レベル]』(以上、KADOKAWA)、『古文単語キャラ図鑑』(新星出版社)などがある。

『平家物語』とは?

鎌倉時代に成立したと考えられている軍記物語。

作者、成立年ともに未詳。

平清盛を中心とした平家一門の繁栄と没落が描かれています。

仏教的無常観が根底に流れており、文体は和漢混交文です。

盲目の琵琶法師が、琵琶に合わせて『平家物語』を語った音曲を「平曲」といい、琵琶法師たちが日本各地を巡り、平曲によって口承で広まっていきました

漫画でわかる!平家物語「木曾の最期(きそのさいご)」のあらすじ

 

平家物語「木曾の最期(きそのさいご)」の登場人物は?

〔義仲勢〕

●木曾左馬頭(=源義仲)

●今井四郎兼平(=義仲の乳母子)

●巴(=巴御前、女性武者)

●手塚太郎

●手塚別当
 
〔敵〕


●一条次郎、兵衛佐(=源頼朝)

●若党(=一条次郎の若い従者たち)

●土肥次郎実平

●御田八郎師重

●三浦の石田次郎為久

●為久の家来二人

●その他大勢の敵。

平家物語「木曾の最期(きそのさいご)」の原文と現代語訳を読んでみよう

木曾左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の直垂(ひれたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧着て、鍬形(くはがた)打つたる甲の緒締め、いかもの作りの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、頭高に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いてぞ乗つたりける。

木曽左馬頭の、その日の装いは、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、鍬形を付けてある兜をかぶり、いかめしい装飾がされた太刀を腰にさして、石打ちの矢で、その日の戦いで射て少し残っている矢を、頭より高く出るようにして背負い、滋籐の弓を持って、世に知れわたる木曽の鬼葦毛という馬で、非常に太くたくましい馬に、金をあしらった鞍を置いて乗っていた。
鐙踏んばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。

鎧を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことには、「以前に耳にしたことがあっただろうが、木曽の冠者(自分のこと)を、今は目にしているだろう。(私が)左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲であるよ。
甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによいかたきぞ。義仲討つて、兵衛佐に見せよや。」とて、をめいて駆く。

(お前は)甲斐の一条次郎と聞く。お互いに(打ち合うには)よい敵だ。義仲を討ち取って、兵衛佐に見せよ。」と、大声で叫んで馬に乗って攻めて行く。
一条次郎、「ただ今名のるは大将軍ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや。」とて、大勢の中に取りこめて、我討つ取らんとぞ進みける。

一条次郎は、「ただ今名乗っているのが大将軍だ。討ち残すな皆の者よ、取り逃がすな若い従者ども、討て。」と言って、大勢の中に(義仲を)取り囲んで、我こそが討ち取ろうと進んだ。
木曾三百余騎、六千余騎が中を、縦様・横様・蜘蛛手・十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。

木曽義仲勢の三百余騎は、(敵勢)六千余騎の中を縦に、横に、四方八方に、十文字に駆け散って、(敵の)後ろへさっと出たところ、(味方は)五十騎ほどになっていた。
そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平二千余騎でささへたり。

そこを打ち破って行くうちに、土肥二郎実平が二千余騎で(行く手をはばんで)待ち受けている。
それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎ほどにぞなりにける。


それも打ち破って行くうちに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりの(敵の)中を何度も駆け破っていくうちに、主従で五騎になってしまった。
五騎がうちまで巴(ともゑ)は討たれざれけり。

(その)五騎のうちまで巴は討たれなかった。
木曾殿、「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、言はれん事も、しかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉りて、「あつぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたるところに、武蔵の国に聞こえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。

木曽殿は、「お前は早く、女なのだから、どこへでも(逃げて) 行け。私は討ち死にしようと思っているのだ。もし人の手にかかるならば自害をするつもりなので、木曽殿は最後の戦いに、女をお連れになっていたなどと、言われるような事も、ふさわしくない。」とおっしゃったが、(巴は)それでも逃げて行こうとしなかったのだが、あまりに(何度も木曽殿に)言われ申し上げて、「ああ、良い敵がいたらなあ。最後の戦いをしてお見せ申し上げよう。」と言って、控えているところに、武蔵の国に名高い力持ち、御田八郎師重が、三十騎くらいで現れた。
巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押し付けて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。

巴は、その中に駆け入って、御田八郎に(馬を)強引に並べ、ぐいっとつかんで(馬から)引きずり落とし、自分の乗っている馬の鞍の前輪に押さえ付けて、少しも身動きさせず、首をねじ切って捨ててしまった。
そののち、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。

その後、武具を脱ぎ捨てて、東国の方へ逃げていった。
手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。

手塚太郎は討ち死にした。手塚別当も敗走した。
今井四郎、木曾殿、主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」

今井四郎と、木曽殿が、主従二騎になって、(木曽殿が)おっしゃったことには、「普段はなんとも感じない鎧が、今日は重くなったことだよ。」と。
今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。何によつてか、一領の御着背長を重うは思し召し候ふべき。それは、御方に御勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候へ。兼平一人候ふとも、余の武者千騎と思しめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢つかまつらん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手の武者、五十騎ばかり出で来たり。

今井四郎が申し上げることには、「お体もまだお疲れになっておられず、御馬も弱ってはおりません。どうして、一領の鎧を重いとお感じになるはずがありましょうか。それは、味方に軍勢がございませんので、臆病でそのようにお思いになるのです。私兼平一人でありましても、他の武者千騎(にあたる)とお思いなさい。矢が七、八本ございますので、少しの間防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中でご自害ください。」と言って、馬に鞭を打って行くと、また新手の武者が、五十騎ほど現れた。
「君はあの松原へ入らせ給へ。兼平はこのかたき防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、ひと所でこそ討ち死にをもせめ。」とて、馬の鼻を並べて駆けんとし給へば、

「殿はあの松原へお入りなさい。私兼平はこの敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曽殿がおっしゃることには、「義仲は、都で討ち死にするつもりであったが、ここまで逃げてきたのは、お前と同じ場所で死のうと思ったからだ。別々で討たれるよりも、同じ場所で討ち死にをしよう。」と言って、(兼平の馬と自分の)馬の鼻先を並べて駆けようとなさるので、


今井四郎馬より飛び下り、主の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候へども、最期のとき不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。御身は疲れさせ給ひて候ふ。続く勢は候はず。かたきに押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等に組み落とされさせ給ひて、討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ち奉たる。』なんど申さんことこそ、口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせ給へ。」と申しければ、木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆け給ふ。

今井四郎は、馬から飛び下り、主君〔=義仲〕の馬の口に取りすがって申したことには、「武士は、常日頃どれほどの評判が高くございましょうと、死に際に失敗してしまうと、長く不名誉となるのでございます。お体はお疲れでございます。後ろに従う軍勢はございません。敵に押し離されて、取るに足らない人の家来に組合い(馬から)落とされなさって、お討たれになられたならば、『非常に日本国に評判が高くていらっしゃった木曽殿を、だれそれの家来がお討ちになった。』などと申すようなことは、残念でございます。どうかあの松原の中にお入りなさい。」と申したので、木曽殿は、「それならば。」と言って、粟津の松原へ馬で駆けなさる。
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参に入れよ。」とて、射残したる八筋の矢を、差し詰め引き詰め、散々に射る。

今井四郎はたった一騎で、五十騎ほどの(敵の)中に駆け入り、鎧を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことには、「いつも噂でも聞いて知っているだろう、(そんな私を)今は御覧あれ。木曽殿の乳母の子、今井四郎兼平、年は三十三になり申す。そのような者がいることは、鎌倉殿までもご存知であろう。兼平を討ち取って(頼朝の)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、次から次へと弓につがえて激しく射る。
死生は知らず、やにはにかたき八騎射落とす。

(矢が当たった敵の)生死はわからないが、たちまち敵八騎を射落とす。
そののち打ち物抜いて、あれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面を合はする者ぞなき。

その後に刀を抜いて、あちらに馬を走らせ戦い、こちらに馬を走らせ戦い、(敵を)切って回るので、顔を合わせ(て立ち向かってく)る者がいない。
ぶんどりあまたしたりけり。

(敵の命を)多く奪った。
ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。

ただ、「(兼平を)射殺せ。」と言って、(軍勢の)中に取り囲んで、雨が降るように(矢を)射たが、(兼平の)鎧がよいので貫通せず、(鎧と鎧の)隙間を射ないので傷も負わない。
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。

木曽殿はただ一騎で、粟津の松原へ馬に乗って走りなさるが、一月二十一日の、日没の頃のことであるので、薄い氷が張っていて、深い田があるとも知らずに、馬をざっと勢いよく乗り入れたので、(沈んで)馬の頭も見えなくなった。
あふれどもあふれども、打てども打てども、働かず。

馬の脇腹を鐙で蹴っても蹴っても、鞭で打っても打っても、(馬は)動かない。
今井が行方のおぼつかなさに、ふり仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦の石田次郎為久、追つかかつてよつ引いて、ひやうふつと射る。

今井の行く先が気がかりで、空を見上げなさった兜の正面の内側を、三浦の石田次郎為久が、追いついて(弓を)十分に引き絞って、ひゅっと射る。
痛手なれば、真向を馬の頭に当ててうつ伏し給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曾殿の首をば取つてんげり

(木曽殿は)深い傷なので、兜の正面を馬の首にあててうつむきなさっているところに、石田の家来が二人来合わせて、とうとう木曽殿の首を取ってしまった。
太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名のりければ、今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、「今は、誰をかばはんとてかいくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。

(木曽殿の首を)太刀の先に突き通して、高くあげて、大声をあげて、「常日頃、日本国で名高くていらっしゃる木曽殿を、三浦の石田次郎為久がお討ち申し上げましたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦をしていたが、これを聞いて、「今となっては、誰をかばおうとして戦をする必要があるだろうか、いや、もうない。これをご覧あれ、東国の武士たちよ、日本一の勇猛な武士が自害する手本だ。」と言って、太刀の先を口に含んで、馬から逆さまに飛び落ちて、貫いて死んでしまった。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。

こうして、粟津の戦いは終わった。

 

平家物語「木曾の最期(きそのさいご)」の定期テスト対策!ポイントをチェック! 

「直垂」の読みは何ですか

「ひたたれ」と読みます。

「男性の衣装」と覚えておくと、古文の主語把握の際には性別までは絞りこめるので便利です。

「打つたる」「残つたる」のように、本来は「ち」や「り」の文字が「つ」に変わることを何といいますか

促音便といいます。

他にも「持つて」「乗つたる」「討つて」など、本文のいたるところに促音便があるので、意識してみましょう。

「太うたくましいに、金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。鎧ふんばり立ち上がり…」の中にある音便をそれぞれ例のように説明しなさい

(例) 〔文〕 打つたる甲の~    〔解〕 「打つ」が「打ち」の促音便
 
「太う」が「太く」のウ音便 / 「たくましい」が「たくましき」のイ音便 / 「置い」が「置き」のイ音便 / 「乗つ」が「乗る」の促音便 / 「ふん」が「ふみ」の撥音便

「一条次郎とこそ聞け。」を現代語訳しなさい

「一条次郎と聞く。」となります。

係助詞「こそ」は強意の働きですが、訳出不要で省くとよいです。

「聞け」は係り結びの「結び」で已然形になっていて、命令形ではありません。

よって、「聞け!」のように命令形で訳さないようにしましょう。

「こそ」を省くので、「聞け」は元の文の終わりの形「聞く」と訳すとよいです。

平叙文で訳すだけですが、これが強意の係助詞の訳し方です。

「とうとう」はどこにかかっていきますか

「とうとう」は「とくとく」のウ音便。

「とく」は「早く」と訳す副詞で重要単語です。

漢字で「疾く」と書き、疾風(=早く激しく吹く風)の「疾」ですね。

副詞は名詞以外のものを修飾するので、次の「女」ではありません。

ここでは「早く、早く行け」ということで、「行け」にかかります。

「よからうかたきがな」を現代語訳しなさい

「よから」は形容詞「よし」の未然形。

「う」は助動詞「む」が変化したもので、体言の上の「む」は婉曲(=~のような)の意味になりやすく、ここでも婉曲です。文末の「がな」は状態願望の終助詞。

よって、直訳は「よいような敵がいればなあ」です。

「立派な敵がいたらなあ」ということです。

木曽殿から「普段は何とも感じない鎧が、今日は重く感じる」と言われた今井四郎は、何が原因だと答えましたか

味方に軍勢がなく、気弱になっているから。

今井四郎が木曽殿に、一度は「御身もいまだ疲れさせたまはず」と言っていたのに、その後で「御身は疲れさせたまひて候ふ」と逆のことを言ったのはなぜですか

 味方の軍勢もいないので、このままでは取るに足りない人物の家来に打たれてしまうような残念なことになるかもしれず、自害するように説得するため。

「取つてんげり」の元の形は何ですか

「取りてけり」。

「取つ」は「取り」の促音便。

「てんげり」は「てけり」が発音「ん」を伴い、「け」が濁ったもので、語調を強める働きをします。

今井四郎が戦いをやめて自害をしたのはなぜですか

義仲が自害するまでの時間稼ぎのために戦っていたので、義仲が討たれてしまったことを聞いて、もう戦う必要がないと判断したから。

 古文の対策


古文を勉強するときは誰の様子を描いたものなのか主語を把握しながら読むと理解が進むよ。
 
そして、テストに出やすい古文の単元はほかにもたくさんある。
 
岡本先生が現代語訳とポイントを解説してくれているので、ぜひテスト勉強に役立ててね!

●伊勢物語「初冠(ういこうぶり)」
 
●伊勢物語「筒井筒(つついづつ)」
 
●伊勢物語「東下り(あずまくだり)」
 
●枕草子「中納言参り給ひて」
 
●大鏡「花山院の出家」 前編
 
●大鏡「花山院の出家」 後編


\古文に興味をもったキミへおすすめの学問/

●日本文学

古代から現代まで、あらゆる日本の文学作品を学ぶ学問。

日本文学の作品を読み、テーマや文体などの研究を通して、作品の背景となる歴史や文化、社会、人間そのものを研究する。
日本文学を学べる学校を探す
●日本文化学

日本独自の文化について研究する学問。

文学、芸術、民族、思想、日本語など、日本文化の特色をとらえ、日本の風土、歴史、社会などとの関連性を研究する。
日本文化学を学べる学校を探す
●歴史学
 
日本や世界各国の歴史と文化を研究する学問。

人間の文化、政治、経済などの歴史上のテーマを、それがどのように起こり、どんな意味をもつのか、資料や原典にあたり、実証的に研究、現代に生かしていく。
歴史学を学べる学校を探す