高校2年で芸人の道を決意! 小籔 千豊さんに聞く! 「誰かのために頑張る生き方」とは
「もう部活をやめたい」
「大学進学をあきらめようかな」
って、くじけそうになったことはない?
今回は、何度も芸人をやめようと思ったけど、応援してくれる仲間や家族のために、「あと1年だけ…!」「もう少しやってみよう…!」と何度もふん張り続けてきた小籔千豊さんにインタビュー。
下積み8年から、吉本新喜劇に入団して約4年という異例の早さで座長に大抜擢されるまで、どうやってモチベーションを維持してきたのか、話を聞いてみた。
高校2年で「舞台に立ってみたい」と芸人の道へ
ーー小籔千豊さんは、どんなきっかけで芸人になろうと思ったの?
小学生のころから、なんばグランド花月に通うくらい、お笑いが大好きでしたが、一生の仕事ではないと思っていましたし、お笑いを野球選手の球のスピードに例えると、150kmを超える剛速球を投げられないとプロの芸人になれないと考えていたんです。
自分では120kmなら出せる自信がありましたが、150kmなんて到底ムリ。
ところが、90kmしか投げていないヤツが劇場に出ていた。
ぼくのあこがれの神聖な舞台に、なんでおもろないヤツが立ってるんだ。
そんなんでいけるんやったら、自分の速球がどこまで通用するか試してみよう、と決心。
でも『芸人になりたい』というより、『舞台に立ってみたい』『大好きなバッファロー吾郎としゃべりたい』『テレビも1回くらい出れたらいいかな』、そんなノリでしたね」
軽い気持ちで芸人への道を歩み始めた小籔さん。
そのころから「どうせすぐやめるんやろな」と思っていたというから意外だ。
趣味や大学のサークル気分で、お笑いの仕事をしていた
高校2年の後半に、中学からの友達とコンビを結成。
漫才のネタを書き始めた小籔さん。
高校卒業後は、NSC(吉本総合芸能学院)に一緒に入学して、コンビを続けた。
漫才をしてギャラをもらっても、仕事とはとらえていなくて、趣味や大学のサークルの感覚で毎日を楽しく過ごしていました」
一方、この時のプライベートはというと、19歳から付き合い始めた彼女と、21歳の時に結婚の約束をした。
しかし、芸人としてなかなか本気モードになりきれなかったので、当然、生活は安定せず、結婚できないまま8年が過ぎていった。
結婚するため芸人をやめようとしたら仲間たちが大反対!
そんなある日、相方から突然、「漫才をやめて、構成作家になりたい」とコンビ解散を告げられた。
長いこと待たせている彼女と結婚して、ちゃんと稼げる仕事に就こうと迷わず決めたんです」
彼女にプロポーズをすると、「ほんまに芸人やめてええんか? 40歳くらいになった時に、まだやっとけばよかったって言うんちゃうか? 続けてええで」と言われたものの、小籔さんの決心は変わらず、本気で職探しを始めた。
ところが、やめることを内緒にしていた芸人仲間に知られてしまい、たくさんの人から猛烈に引き留められた。
たむらけんじは『引き留めたはいいが、結局売れへんかったらかなわん。
だからオレは今まで、世界のナベアツさんしか引き留めていない。
でも、お前は絶対に売れるから、やめるな』と言ってくれた。
FUJIWARAの原西さんは『お前の相方は、ほんまアホやな。オレやったら絶対に解散せえへん。お前は金になるからや』と、あんなにおもしろい人が自分を認めてくれたんです。
ある時は、野性爆弾のロッシーから家で飲もうと誘われ、シャンプーハットの小出水も終電で来て、翌朝5時には仕事へ行くというのに寝ないで、『やめたらダメです。小籔さんは絶対に売れます。やめたら困ります』と説得してくれた。
芸人同士はライバルでもあるし、ぼくが続けても、こいつらに何のメリットもないはず。
なのに、そこまでして引き留めてくれる仲間に囲まれていたと気づいたら、やめたくないと思ったんです。
お笑いには自信がなかったので、芸人を続けたいというより、こんなええやつらと離ればなれになりたくないという気持ちでした」
真剣に引き留めてくれる仲間の存在が、小籔さんの「やる気」を取り戻させたのだ。
芸人人生は、あと1年だけのつもりで死ぬ気で頑張った
彼女に「1年だけやっていいか? 1年経って、あかんかったら、ほんまにやめるから」と約束。
「東京で漫才師」「東京でピン芸人」「大阪で漫才師」「大阪でピン芸人」「大阪で吉本新喜劇」という5択の中から、一番長く安定収入を得られる確率が高そうな吉本新喜劇を選んだという。
でも、最下層の『お客さん役』しかもらえなかったんです。
お客さん役だと1日2500円しか稼げないから、週4日はファミリーレストランでアルバイト。
金持ちになったら結婚しようと8年以上も待たせたのに、結局、人生で一番貧乏な時に結婚したんですよ。
お金がないから披露宴はできず、狭い家に住んで、嫁はんのほうが稼いでる。
ダサくて、情けなかったですね」
吉本新喜劇に入団して9カ月経っても、お客さん役しかもらえず、やっぱりやめようと思った。
ところが、ある時少しだけ出番の多いチンピラ役がまわってくる。
そして、約束の1年が過ぎる頃、わずかながら顔が売れてきているのを実感して気持ちが変わった。
ところが、またチンピラ役のままで9カ月が過ぎてしまい、このままでは家族を養うことができない、今度こそやめようと考えていました」
すると、またしても先輩芸人に救われた小籔さん。
ついに大きなチャンスをモノにして、その後は、吉本新喜劇の中心的な役に定着するようになり、NHK朝の連続テレビドラマのレギュラーにも抜擢された。
「誰かのため」だと考えることで頑張ることができる
何度も芸人をあきらめかけた小籔さんがモチベーションを維持できたのは、そのたびに誰かに救われたり、明るい兆しが見えたから。
吉本新喜劇に入団して約4年後、32歳で史上最年少(当時)座長に就任した。
でも、吉本新喜劇に入ってからは、『人のため』に頑張ろうと考えたんです。
しんどいからやめようかな、と思った時、引き留めてくれた仲間や、家で貧乏な生活をして待っている嫁はんの顔を思い浮かべていました。
仲間に『小籔を引き留めて良かった』『オレらのおかげやな』と喜んでもらいたかったし、一人前の男として家族を養いたかったから。
昔は、オリンピック選手が『皆さんのおかげで金メダルが取れました』と言うのを聞いて、みんなやなくて、お前の努力と才能のおかげやろ、と思っていたんです。
でも、座長就任時の口上で、心の底から『皆さんのおかげです』って言っていましたね。
人間って、誰かに認められたり、必要とされることで頑張れると思うんです。
引き留めてくれた仲間、かわいがってくれた先輩、待っていてくれた嫁はん、応援してくれるお客さん、さらには自分を生んで育ててくれた親にも感謝。
皆さんのおかげで、今、こんな晴れがましい舞台の一番真ん中に立っているわけだから、恩返しをせなあかんなと思いましたね」
座長になったことがスタートで、やっと恩返しができる立場になった、と小籔さん。
先輩方が50年もの歴史を築いてきた吉本新喜劇のさらなる発展に貢献して、自分も未来の芸人たちのために何かを残したい。
誰かのために「してあげる」じゃなくて「もろたもんを返す」のは当然のことだと言う。
「恩返し」の気持ちがあれば、あきらめずに頑張ることができるのだ。
自分が頑張れると思った目の前の仕事を続ければいい
ーーこの道を進んでいいのか、迷っている高校生たちに声をかけるとしたら?
芸人をやめた人生を歩んでいないので。
でも、この道を選んで正しかったかどうかなんて振り返らず、目の前の仕事をこなしていけばいい。
誰かのために一所懸命に頑張ればいいのではないかと思いますね。
ぼくは楽しい仲間とお仕事をさせてもらって、今は家族を養うことができているので、それ以上のことは望んでいない。
まわりと比べず、自分が頑張れる仕事、ベストじゃなくてもベターな仕事を続けていけばいいと思うんです」
ーーそんな小籔さんの今の目標は?
10年くらい前だと、東京では吉本新喜劇を知らない人が多かったけど、最近ちょっとずつ認知度が上がってきました。
でも、大阪まで観に来てもらうことは大変。
だから、こっちから大阪の吉本新喜劇のメンバーを連れて行って、8月に『吉本新喜劇 小籔座長東京公演2017』をします。
デパートの北海道物産展でウニを食べるみたいな感覚で、大阪の吉本新喜劇を一口試食してみてください。
おもろいオススメのメンバーばかり選んでいますから、一度はナマで吉本新喜劇を観てほしいですね」
1973年9月11日生まれ。
大阪市出身。
NSC大阪校12期生。
93年、漫才コンビ「ビリジアン」を結成、2001年に解散。
同年、吉本新喜劇に入団。
2006年に当時の史上最年少で座長就任。
家族は妻と一男一女。
『吉本新喜劇 小籔座長東京公演2017』
2017年8月9日~13日 銀座ブロッサム中央会館
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